Halina : ネグロス訪問記

ハリーナ店主が書いた旅行記です。興味があればご覧ください。

ネグロス訪問記


6月29日、私は9年ぶりにネグロス西州のバコロド空港に降り立った。肺の奥まで懐かしい南国の空気を吸い込んだ。今回の旅は女性4人。とてもステキな道連れだった。食いしん坊という共通項が幸いして、ネイティブフルーツ食べまくりの旅でもあった。何しろ日本では滅多とお目にかかれないドリアンなどのフルーツがどっさり、目をキラキラさせて味わった。おかげで2キロも太って帰った。食べ物だけでなく旅は風、水、陽光と様々な匂い、目に映るすべてがその瞬間しか味わえないものだから、ついついどん欲になってしまう。

今回3度目のネグロス訪問を思い立ったのは、昨年参加した清水響さんの報告を聞いたことがひとつのきっかけだった。ご存じの方も多いだろうが、私が「キッチンハリーナ」という店を始めて7年になる。開業のそもそものきっかけのひとつに2度のネグロス訪問があった。民衆交易のバナナや砂糖の生産者に出会い、私の知らなかった世界を知った。このバナナと砂糖を使ったケーキを出したいという突飛な思いが私を支配してしまい、以来、がむしゃらの日々だった。響さんの新鮮な思いを聴き、ふと、私自身がネグロスの人々と出会ってからの10年を思った。初めてバナナ村を訪ねた99年、わたしはバナナを見ることができなかった。「1日に3ご飯を」「年3着の衣類を」「子どもを学校へ」などを目標にはじまった自立資金付きのバナナ民衆交易は、それが唯一の現金収入だったために病害が多発し頓挫していた。再び訪ねたのは2001年、「バナナの産地の拡大」「植えっぱなしから管理栽培への転換」「農業指導」などを盛り込んだ「バナナニリューアル計画」が始まり新しいバナナ村の人々に会いに行った。あれから9年。バナナやさとうきびの生産者や、現地のスタッフ、そしてネグロスがどう変化しているのかこの目で確かめたいと思った。よし、決めた。行こう。

州都バコロドはずいぶん変っていた。3年前に新空港が日本のODAで造られた。市街には巨大なショッピングセンターが5つも増えていた。車の量も圧倒的に増えていた。グローバル化の波はこんな地方都市にも浸透している。今から訪ねる農村にどんな影響があるのだろう?

旅の3日目にエスペランサというサトウキビ農園を訪ねた。スペイン植民地時代から続いている大土地所有制(アシエンダ)と農村の貧困は切っても切れない関係にある。フィリピンの中でもアシエンダのメッカだったネグロスの場合農地改革は特に難航している。エスペランサ農園の土地闘争はもう18年に亘る。アキノ大統領の下で出された農地改革法のもと、農園で働く75家族が組合{NARB}を結成して法的手続きを始めた。私が初めてネグロスを訪れた11年前に、農地改革省から「クロア」という土地所有裁定書が、170家族全戸に発行された。クロアを取得できたとしてもそれから土地銀行が定めた地価を25年から30年のローンに組み支払うというシステムだから、すぐに現金収入を得なければ再び土地を手放さざるを得ない仕組みになっている。500haに及ぶ肥沃な農園を失うことを恐れたエスペランサ農園主は、全労働者に組合を作ることを求め、組合と地主による合弁会社を設立し「クロア」を抵当に入れるよう求めた。その時点で地主に忠誠を誓う合弁企業側とNARBの75家族は完全に分断されてしまう。

元々サトウキビ労働者が仕事と収入がある時期はごく限られており{死の季節}と言われる農閑期は、地主から前借りしなければ生活がしのげなかった。地主との関係がなくなったNARBは砂糖の収穫まで困窮し、当時の土地闘争の牽引役ベン神父を通じて、日本のNGO出会うことになる。地主側はありとあらゆる嫌がらせをした。武装した私兵を使い、サトウキビの刈り取りを強行したり、NARB組合員の家を選別して電気と水道の供給をストップした。(これは10年たった今も続いている)
今回、その当時の話を語ってくれたローリージンさんは、武装私兵が巡回する恐怖感で子ども達が学校に通学できなくなったこと、近隣の農園にもブラックリストが回って仕事がもらえないため女性達が洗濯仕事や手伝い仕事をして生活を支えたのよと涙を浮かべ、周りの女性達も同じ表情だった。

2001年再びネグロスを訪れたとき、エスペランサの人々が私たちに会いに来てくれたのは、そんな生活の中からだった。ツァーのスケジュールには危険すぎて組み込めなかったため諦めていた私たちに連絡が入ったのだ。日本のカトリック教会の故白柳枢機卿達が当時のアロヨ政府を訪問した直後だった。政府軍の武装兵士の警備のもとバコロド市内の公園横で私たちを待っていてくれた。当時はよくわからなかったが、今になって思う。日本からわざわざ自分たちを応援に来てくれた人々はどれだけ心強い存在だったか。どれだけ助けを求めていたか。私たちは手を握りながら写真に収まった。

その後農地改革省は完全なる耕作権をNARBに認めた。しかし、その後におこったことは想像を絶するものだった。待ちに待ったさとうきびの刈り取りを始めた50人のNARBメンバーに武装私兵が無差別に発砲、29才のジョニーが死亡、二人が負傷した。(未だに裁判は解決していない)2003年のことだから、私がハリーナをちょうど始めた年だった。翌年の冬にエスペランサの委員長リト・エスタマさんと女性組合員が日本の各地をめぐり、エスペランサの窮状と支援を訴えた。京都でもキャンパスプラザで集会を持った。たまたまハリーナの2階を宿泊所に提供した縁で、リトさんのお話をいろいろ聞くことが出来た。そのときの印象は、どんな困難にも決してひるむことなくNARB(ファミリー)の先頭に立ってみんなを勇気づけるリーダーとしてのリトさんだった。

ネグロスの中央に位置するラ・カルロータ製糖工場、その裏手にひろがる農園は500haという。厳重な関門で警備員に身分証明書を預けて通してもらったもののそこからが本当に長い道のりだった。車で1時間以上、延々と続く風景はさとうきび畑ばかり、所々に集落が見える。なるほどアシエンダの典型といわれるはずだ。80年代に砂糖の国際価格が大暴落したとき餓死者が続出したのはこんな経済構造にあったからなんだ。もうすぐ村の集会所と教えられたとき、大きな木の十字架が立っている畑を通り過ぎた。銃撃事件があったところだ。

リトさんたちと再会できて、本当にうれしかった。早速その後のエスペランサの歩みを聞いた。2004年からオルタートレード社の支援プログラムを受けて、有機肥料作りに取り組んだ。170haの土地を集団経営し、サトウキビの他に米や野菜を作り、山羊や鶏を飼っている。収入は借金や修理代、メンバーの配当金、そしてNARBの運営費に充てている。収穫したサトウキビはオルタートレード社のマスコバド製糖工場などに出荷し、農作物はまず仲間で分ける。そのほかに個人で庭先に野菜を作っている。野菜作りは特に女性達ががんばっているという。昨年、もっとも自立した生産者協同組合として政府に表彰され4万ペソ(10万円)もらうことが出来た。それを元手に、協同組合ストアーを建てた。将来の夢は、電気と水の復活、子ども達を全員大学に入れること、そして生活の保障が出来る地域を創り出すこと。水と電気というライフラインを断ち切られた日常の中にも確かなエスペランサ(希望)がそこにはあった。

私たちが交流した場所は村の集会所前の広場だった。沢山の手作りのおやつを用意して温かく迎えてくださったナナイ(お母さん)と子ども達、殺されたジョニーの妻や子ども達もいただろう。血を流して手に入れた土地をどう生かしていくか?それはエスペランサに限った課題ではなく、バナナ生産者や、元サトウキビ労働者にとっての共通の課題だ。何世代にも渡って、続いてきた賃労働生活から生み出された生活スタイルを変えていくには、とてつもない時間がかかるのかもしれない。5年ほど前、故ベン神父がハリーナに来られたとき語ってくれた言葉を思い出した。「問題は資金や技術不足ではなく、彼らの価値観・・労働者の農園主もしくはNGOの指導者への依存、労働者間の依存。そして作物がサトウキビやバナナに偏っていることにある。労働者の頭から農民の頭に変わる兆しが見えるまで10年かかった。今やっとさとうきびの協同耕作だけから家族農業へ変ってゆき米や野菜を作り始めている。そこには女性の果たせる役割が生まれた。真の農村の発展は女性の参加なくしては行えないだろう」

エスペランサ農園でも、さとうきびの間にピ−ナッツや、トウモロコシ、芋がうえられ、山羊が草をはみ、家々にはゴーヤやナス畑が見られた。通訳をしてくれた幕田さんが「いつもはリトさんがみんなを代表して話すパターンだったのに今日はリトさんの妻のローリージーンさんが話してくれた。これは画期的なことよ」とつぶやいた。リトさんという最強の牽引役がいたからこそ、数々の苦難を乗り越えられたことも事実だろう。しかしすべてがリトさん頼りでは依存の対象が変ったにすぎないといえなくもない。エスペランサでも野菜作りを始めてから、女性達が野菜加工のセミナー参加したりや販売の工夫の中心となってきたという。

今回訪ねたバナナ村でも、活気にあふれ具体的な展望が明確だったのは、女性が委員長だったパンダノン村だった。バナナ以外の野菜作りと協同出荷が既に始まっていた。「今では私たちがいないと成り立たないのよ」とドロレスさんが話すと、周りの女性達が大きく頷いた姿がとても印象的だった。国内流通のシステムが出来上がれば、若者が都会に出なくても生活の基盤ができるだろう。次の世代のために「村で孤立せず、仲間をつくり、楽しいと実感できる生産現場、農業で食べていける地域をつくり出したい」今回の旅でこんな思いを何度となく聞いた。そこには、日本の私たちにバナナを買ってもらえなければ立ちゆかないといった一方的な関係はない。飢餓をきっかけにはじまった砂糖とバナナの民衆交易、この20年はネグロスの人々と日本の私たちが本当に対等なパートナーとなるプロセスでもあったのだと実感した瞬間でもあった。


今回の旅で感じたことはどれも答えのあるものではなかったが、今、ここにいる私に対する問いや、いろいろな視座をもらったことが何よりのお土産だった。